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夜汽車は行く星屑の中汽笛を鳴らして
とても!長いです!!
これうpするのは2018年7月。この一年半ほど自分の中で時計が止まってたんだけど、それを動かしていくためにこんなことがあって、こんなことを考えていたんだよねずっと!というもよもよを書き散らかします。

もう二年近く前の話なので、どっちかというと旅記を眺めるような感じで、それでもそれはあなたの知っているしーなみなみの旅記だという認識でお付き合いいただけるととても嬉しいです。


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私が沖縄を出て三重に来たのが6年前。(これ書いてるのは2018年の6月だけど) 2011年の8月のこと。
初めて自分のふるさとを離れて一人暮らしをして、当然私は周りの誰も知らないし、周りの誰も私を知らない。
志があって、それと同じくらい逃げたい問題もあって、用意していた挑む気持ちと逃避の気持ちをがばっと覆い尽くすような、ひたすら初めて尽くしの感情と環境と発見と発覚と。寂しさと清々しさもないまぜになった、自由すぎる怒涛の日々を謳歌しながら2ヶ月ほど経ったとき。働いていた工場で、3つ下の同郷の女の子(名前関係無くAとします)と出会った。

同じ派遣会社で、トイレで遭遇して衣替えについて訊かれただけなんだけど。
ものの数秒で「なんか赤の他人とは思えないね!」と意気投合。その日の帰りには一緒にご飯食べに行って、本当に初めて会ったとは思えないほどの打ち解けっぷり。そして私の三重生活はガラリと変わった。
隣の課だったし昼夜勤が合わなかったりもしたけど、しょっちゅうお昼を一緒に食べて、買い物に行ったりお伊勢参りに行ったり大阪まで行ったり。私は一人で独りぼっちを存分に楽しんでたけど、やっぱり友達の存在って本当に有り難くてね…
何より明朗で楽しいAは妹のようで、ずっと長い付き合いの知己のようで、驚くほど色んなことを打ち明けあえる子だったし。Aと縁ができただけでも、三重に来て良かったと思えるほどだった。

んで、お互い半年の契約でここに来ていて、私は3月、Aも4月には沖縄に帰るつもりで。
三重での暮らしについて、「銀河鉄道の夜みたいだね」って話してたんですよ。
田んぼに囲まれた田舎で、明かりのない田んぼ道を夜に電車が走っていく感じがね、ガタタン・ガタタン…って音とか細いライトだけが前を照らしてるのとか、車窓のからの整然とした明かりが田んぼの水面に映ってる様子とかも。ほんっと今でも見惚れるくらい銀河鉄道なの…語彙が足りぬ!(水面云々は千と千尋かな)
んでお互い沖縄では会ったことがないのに、ここで仲良く遊んだり語らったりしているのがね、本土という気候も環境も何もかもが違う、期限つきの、夢の中の世界のようだと。
二人で夢の中で出会って、電車でどこまでも行く世界で、大阪みたいな都会だったり雪の降る場所だったり、桜が舞い散る場所だったり、沖縄にはありえない場所を冒険していて、沖縄にずっといたら考えることのなかった諸々に出会って。そうやって夢から覚めたとき、ここで過ごした半年をどんな想いで振り返るんだろうねって。そんなことを話していたのよ。
まぁ完全に陶酔だけど(笑)それくらい意気投合出来る同郷の人と、よりによって本土で出会えただけでも、物凄い偶然よね。

そして結局私はその銀河鉄道をちょっと延長することを選んで(永住する気はこのときは全然無かった)、Aは契約通り4月にふるさとに帰って行きました。
それからも沖縄の現況聞いたり、三重での諸々振り返ってメールしたり手紙書いたり、やりとりは続いて。
んで驚いたのが私が帰郷して一緒にご飯食べたとき、Aから聞かされた「実は親戚でした」っていう衝撃の事実ね。昔離婚した祖父が再婚した先での孫がAだそうで。
妹のようで知己のようで、とにかく他人とは思えない、初めて会った気がしないと思ってたらなんと親戚って。
こんなことがあるのかと。世界の狭さに驚くやら嬉しいやら。
とにかく生来人との縁に私は恵まれてると思ってたんだけど、改めて噛み締めて、それに感謝しました。

それから私は当時彼氏だった現夫と紆余曲折ありながらも結婚まで話が進み、そこまでの経緯もAに色々愚痴ったり励ましてもらってたんだけど、結婚が決まったときもとても祝福してくれて。(余談ながら夫(三重県民)も偶然私と同じ沖縄の大学出身でね。本当に世界は狭いというかなんというか…)
そして、結婚のお祝いにとAから手作りのくじら柄バッグをいただいたのが2014年の夏。それを最後に、連絡がつかないようになってしまった。
メールの返事とかは私同様まめな方ではないとしても、手紙とかは宛先不明とかで戻って来たりはしないけど受け取ってくれてるかも不明。
そしてついにラインも消え、メールも電話番号も使えなくなっちゃって。
大丈夫かなと心配しつつも出来ることは無いし、とりあえず年賀状や暑中見舞い等は出し続けていた。また会いたい一心で。会えなくても、元気でいて欲しい願いをこめて。

そして2016年の12月、年賀状用意しないとなと思っていたとき、Aのお母様から手紙が届いた。
今まで貰ったことような綺麗な字の、本当に丁寧な文章で、Aが昨年の6月に急死していたということが書かれていました。

いつも過ごした日々を銀河鉄道の夜になぞらえるとき、さながら私はジョバンニ、Aはカムパネルラだねって話していたんですよ。
こんなことってあるのかと。
急死という書き方でその時は詳しいことは何も分からなかったんだけど、ひとまずこれからはどうあってもAに会うことは出来ないんだというどうしようもない事実だけがぐっさりと突き刺さりまして。

私の中には、親は勿論自分より…というか世間一般でいう年配の方以外で、自分より先に行かれるっていう感覚が無かったことに気付かされた。
順番的に自分の方が先だとかそういうことではなくて、なんと言いますか「良好な関係を築いてさえいれば、繋がりが向こうから断たれることはない」と思ってたというか。
『出会いも別れも同じ縁の中にある。良き出会い、良き別れ、それが良き一期一会』っていう柱が私の中には昔からずっとあったはずなのに、この当たり前の原始的な別れがなぜか組み込まれてなかったなぁと。
またね、と言って別れて、また会えるということがどれだけ当たり前ではなくて、有難いことなのか。

以前から、他の友人・知人関係でも携帯も通じなくなったら普通に縁を切られたと思うだろwとか言われることが結構あったんですが。
ポジティブ思考というわけではないんだけど、一度縁が繋がった人に切られたという発想にあんまり結びつかない自分がいて。
Aと連絡がつかなくなってから1年半くらいの間、私が構わずにお便りを送り続けていた間、Aのお母様にはとてもつらい思いをさせてしまっただろうなと思うんだけど。
でも送り続けていたからこそ、私はAとの縁に向き合って思い出に片をつける機会をもらえたのかもしれないよなぁと。知らない方が悲しまずに済んだのかもしれないんだけど。
ネット上にも大事な人が沢山いる私は、以前から自分が死んだらどうなる・どうするんだろうってずっと考えてたんだけど答えはまだ出てなかったりする。
音信不通のままの方が良いのか。終わりを明確にした方が良いのか。そうすることやしないことにどれだけの価値があるのか。

明日死んでも良い生き方をしてるか?って言葉があるけど。
昔からこれに対する私の答えはあまり変わらずで、「自分が明日死んでも後悔は残らない(死にたくないけど死んだら後悔も残らないから)。でも、家族や友達、大事な人が明日死んでも良いようには私は生きてない」って。
昔からこの考えを持ってたはずだけど、ここまで突き刺されるのは初めてで、なんというかこの考えを持っているからこそ?食らってしまった。
本当にただの我儘や独りよがりでしかないんだろうけど。みんなに、また会えると思ってるんだよ。また会いたいって、思ってるんです。生きて元気で笑ってて欲しい。一番はそれだから、元気でいてさえくれるなら、二度と会えないくらい何でもない。
でも会えないと、連絡つかないと、生きてるのかどうしてるのかもわからない。その意味で私は当然ながら自分の人生しか生きられないんですが。それでも誰々に会いたいとか、元気でいて欲しいと思う気持ちはその相手からいただいたもので。それが原動力になっていることを考えるとやっぱり私は自分だけを生きてるとはどうも思えない。
だから周りの人を大事にしようと思う。自分が親しいと認識している人じゃなくてもいつかどこかで繋がって行く人はいるものね…Aが正にそうだし。一見無関係でも嫌いでも、大事な人の大事な人かもしれない。どこで誰に繋がっていくか全くわからない、恐ろしいことに。
そして何より怖いのは突然それを理不尽に奪われることがあるってことで。それを失ったことにすら気付かない、或いは既にそうなってることに気付いていない可能性だってある。
かといって私に出来ることは変わらずに大事な人たちの未来を祈ることしかないんだけど。
何を代わってやれるでもない、あげられるものも無いし、その人に一番適した言動とかっていうのもわからない。ただただその人の存在を有難がっているだけの私はエゴの塊なんだろうなと思うんだけど。
それでも大事な人が生きて元気でいてくれるのは私にとって本当に有り難くて、意味があって、その人本人にとってもそうであって欲しいと考えているんです。

生きていながらも自分に価値を感じていない人や、ついつい忘れてしまう人はいるけど。
私が出来ることは定期的というと変だけど、忘れずに名前を呼んで「元気?」って声かけるだけなんだけど、それを続けるしかないんだけど。そうしてる内に相手がついうっかりにでも自分のことをもしかして価値や意味がある存在なのでは…?とか 思う必要も無いけど、自分に価値は無いと考えることを忘れる時間が一瞬ずつでも増えていけば良いなとか。思うんです。日本語難しい!
ずーーーーっとそう思ってきたつもりだったんだけどね。油断、ではないけど。なんていうかあまりにもの不意打ちで折り合いが難しかった。
今回私が失ったものの要因に私は無かった。勝手な言い分かもしれないけど、かつてないほどの理不尽を感じた。為す術がないんだから。


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以上が2016年12月のこと。
以下後半は畳みます。2017年1月、たまたま帰省する予定が決まってて。良い機会だとAのお母様に連絡をとり、会いに行ってきました。
ここまでできつかったり気持ち悪いなって思った人はスルーしてください。


本当は今回の帰郷、三年間神戸にいた妹がふるさとで就職が決まった!ってことで、春からの住まいや車を選ぶ諸々に付き合うために飛行機とってたんだけどね。
友達と遊ぶような帰郷じゃなかったから自由に動けてとても助かった。
母と妹も一緒にAに会いに行って、仏壇に手を合わせ、Aの両親からお話を聞かせてもらいました。
正解だったかは今でもわからないんだけど、遺書も読ませてもらいました。


***


Aは物心ついたときから「死」に捕らわれている子どもだったそうで。
沈んで行く夕日を見ながら「お母さん、私もあの綺麗な光に溶けて、消えてなくなりたいな」と言ったのが4歳のときだそうで。

幾つもの要因はあれど、「価値は無く、唾棄されるべき存在だ」というレッテルを小学校に上がる前には自分に貼り付けて、そのトラウマを克服出来ないまま28年生きてしまったと。
まだ若いのにと言われるかもしれないけど、自分としてはだらだらとここまで人生を生きさらばえさせてしまった。
こんな自分に葬式や仏壇でお金や時間を無駄にしないで、何もせずただただ自分の存在を最初から無かったことにして欲しいと。
当時Aの両親は離婚して、Aは父親と一緒に暮らしていたそうで。
自分の死はすべて自分の無価値とそれをどうにも出来なかった弱さが原因だからお父さんは何も悪くない。感謝しているし大好きですと、そんな呪いのような言葉まで。


事あるごとに死にたい、どうせ自分はダメで価値が無いからと耳を塞ぐのでとても扱い辛い子だったみたいで。
そんな自分を逆手に取ってワガママも沢山聞いてもらったことと思う。

なんだろう、正しいも間違いも何も私には判断出来ないけど。
私は大事な人に、つらいことには立ち向かわず逃げて欲しいって多分言う。でも死にたいほどのつらさに出会ってもどうか死なないで欲しいとか、そんな無責任なことも思ってしまう。
彼女が逃げたかったものを一括りにして名前をつけることは出来ない。
ただただ、28年生きて、死に向かう自分を健康な身体で28年も生かしてもらって、自分の中にも他人の中にも、少しの愛も見つけられなかったのか…と。こんな虚しいことがあるのかと打ちのめされた。

葬式も仏壇もいらない、最初から存在を無かったことにしてくれって。ばかじゃねーのっていうね。
実際お葬式は(勿論)したそうです。友達の列がなかなか引かなかったって。仏壇だってある。
Aの両親は、娘の仏壇を守っていくために再婚したんだそうで。
何だろう、ただただ虚しくて仕方がない。


でも厄介だったのがね、私が三重で出会ったAはなんていうか現実にはいない人だったんです。
生い立ちや境遇は私が彼女から聞いたものと、両親から聞いたものはまるで違うものだった。
三重での暮らしや仕事に関しても、Aは両親に嘘をついていたようで。私が「派遣先の工場で出会った」と言うととても驚かれまして。
両親を心配させないように、沖縄での前職の転勤みたいな感じで伝えていたらしい。
三重での彼女を私しか知らないということ、これにはとても参った。
短いながらも私にとって彼女と共有した数ヶ月は、ふるさとを離れて一人になって、自身を俯瞰して、結婚と離郷という人生の転換までの物凄く重要な数ヶ月でね。これまでの人生を揺るがした数ヶ月だったんですよ。
その間の私を彼女だけが知っていたわけで、それをまるっと持っていかれたこと、これに本当に参ってしまった。無くなるわけではないんだけど。

そして逆に三重で過ごしていた彼女から伝えてもらっていた分の言葉や感情、それが完全に私だけのものになってしまった。
人は大事な人を亡くしたとき、その人を知っている人同士で思い出話をしながらその死を受け止めていくらしい。
それが永遠に出来ないっていうことに、一年半前の私は深く絶望というか、暫くダメージを受け続けていた。
「出来ることなら君の記憶の中で息がしたい」私にとって人と繋がるってこの言葉に尽きるんだ…
彼女がアバターとして使っていたAも、私自身も、私の記憶の中だけに存在するものになってしまった。
他人の認識で自分自身の魚拓をとりたい私にはこれが辛くて。
大事な友達を失ったことは勿論辛いんだけど、例えればAと一緒に乗った銀河鉄道、乗ったときには本当に私はジョバンニよろしく一人だったのだろうかっていう。

三重で過ごしていた間、毎日本当に楽しそうにしてたんですよ。職場でもニコニコしていて気に入られてたし、私と同じで一人も大好きだし誰かと一緒にいるのも好きそうで。
期限付きだったからこそかもしれないけど、でも狭いふるさとを出て別人として別の土地でなら、生きていけたんじゃないかなとも思う。
でも彼女は笑って帰って行ったわけで。もとい銀河鉄道を降りて行ったわけで。
そのときにはちゃんと人間は誰しも生き抜いてきた現実と、これから突きつけられる現実があることの覚悟があったんだと信じるしかない。

友達や家族のこと、彼女にまつわる色んな話を聞いたつもりだった。一切が藪の中だけど私はもうこれを紐解いたり探そうとしてはいけない。
丁度この時期にずっと流れていた宇多田ヒカルの「花束を君に」の、「どんな言葉並べても真実にはならないから」というフレーズにとても助けられました。

とはいえどうあってもしんどいよ理不尽だよこんなのって無いよ!っていう思いはずーっとあってね。
話したいことが沢山あったんです。会って沢山話して別れるとき「またね」って言ったはずなのに。次は何を話そうって考えるまでもなく、何かあったら彼女に早く話したいってしょっちゅう思ってたのよ。
彼女の両親、お友達、私も。こんな大勢の人間から理不尽に大事な人を奪ったAはたぶん天国には行けないと思います。
でも、幼少時から抱えていた暗くて重い・誰にも理解されたくないだろう感情を一部でも曝け出した彼女と、彼女の本当の境遇と心情のかけらを少しでも知れた私で、いつかもう一度銀河鉄道に乗ってみたいなとも。思います。


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以上が私の銀河鉄道ぶらり途中下車の旅の記録です。
夢の世界でしかないはずの「ふるさとじゃない土地」が私の現実になって既に4年が過ぎた。
この一連の出来事で心がだいぶ好きじゃないジャンルの孤独に苛まれていたんですが、相変わらず人の縁と優しさと強さに助けられました。

その直後にこれまた畳み掛けるようなタイミングで、自分が一生ものの爆弾を抱えていることが発覚して更に叩きのめされ、それと向かい合うこともままならなかった2017年だったんですが、もう2018年の7月とか…時間の流れは本当に容赦ないね!

くそ長い上に色々あれな感じでしたが読んでくださった(読んでしまった)方、ありがとうございます!
一応念の為。今回の内容は覚えておく必要無いし、私への話題で何か気にかけるようなことは一切ないからそこよろしく!

これからは2017年にやり尽くした不義理をなんとか回収や埋め合わせをさせていただきたく…
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